My Favorites
音楽:チャイコフスキーの交響曲シャンソン(特にエディット=ピアフ、シャルル=トレネ)
小説:『密やかな結晶』小川洋子
『永遠の仔』天童荒太
詩集:『世間知ラズ』谷川俊太郎
『パリの憂鬱』ボードレール
絵画:『電気の精』デュフィ
『逸楽の園』ボッス
歌曲:『死んだ男の残したものは』詩:谷川俊太郎
『千の風になって』日本語詩:新井 満
映画:『家族の肖像』ヴィスコンティ監督
『秘密』滝田洋二郎監督
建築:神奈川県立近代美術館
孤蓬庵忘筌
場所:夜の雑木林
海の見える車窓
このサイトに来てくださりありがとうございます。伊藤 龍樹です。『月明りの森』という詩画集を出版しております。
教会学校に通いながら中学生のとき信仰を捨て、20数年ぶりに神の恵みにあずかるようになりました。
難治性の鬱病患者として、投薬治療を受け続けています。飲む薬の量はかなり多いのですが、
薬の効果と主の安らぎを与えられて、仕事に、仕事外に、意欲が沸いてくるようになりました。
特に詩を書くことは、わたしに与えられたタラントだと想いつつ、日々詩作に励んでいるところです。
今それらを『天上への道』として更新し続けています。
主イエス・キリストの証し人として 伊藤 龍樹
幼少の頃の私は「キレやすい」子供でした。また、いじめられるような子と親しく接しようとする子供でもありました。教会学校から礼拝にも出席していましたが、自分で書くのもおこがましいのですが、空想力に長け、教会の教えていた天国と地獄、特に地獄の恐ろしさに震え上がり、「神は愛のお方である」ことを全く信じることができませんでした。小学校6年生のとき、わたしは寝床で地獄を思ってパニックを起こし、天井はぐるぐる回り、今まさに地獄へ落ちる感覚に捕らわれ、母に助けられて、告白の祈りをして、寝ることができました。そんな中で「こんな地獄の恐怖と戦いながら生きていかなければならない宗教など捨ててしまえ」と教会から離れるようになりました。わたしの記憶の中では、キリスト教の理解として「救いは既に主の贖いによって与えられたものであり、それを信じて感謝の歩みをすれはよい」というのではなく、「罪や咎めの一つでもあれば死んだとき、必ず永遠の地獄へ落とされる」という解釈の仕方をしていたように思います。
大学でバイオサイエンスを学んできたわたしは、クリスチャンとなった今でも、天地創造の物語をそのままの形で盲信することなく、日々新しい発見のある生命や進化について、全く否定することはありません。むしろわたしは天地創造の物語に「光よ。あれ。」と全能の神が創造されたことにビッグバンを覚えます。また、類人猿から言葉を話すことのできる動物として他の原人が滅び、今の人類が生存競争を勝ち抜いたことにヨハネの福音書の冒頭、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。言葉は神であった。この方は、初めに神とともにおられた」という言葉を覚えます。キリストこそまことの主、まことの言葉だったのです。
また、キリスト以外は、宗教というものは教理と伝道を是とする「自己増殖する思想」に過ぎないと思っています(これを専門用語で言うとミームということになります)。わたしは一時期、人に宣べ伝える必要がない般若心経に傾倒していましたが、そこには「無」しかなく、浅はかな思いや怒りを鎮めることには役に立ちましたが、そこには救いはありませんでした。
最初の職場を辞め、 新しい仕事に就くことになりましたが最初は緊張していて毎日疲れきっていました。毎年有給休暇を取り尽くし、不安定な日常生活を送ってきました。10年来鬱病の治療を続けていながら、また、病欠も取りながらの生活でした。確かに鬱積したものがありました。再就職3年目頃から、それまで昼食を食べに行くところだった店の夜の飲酒に浸るようになり、大学で合唱をしていたことをよいことに、カラオケスナックで大声で歌い続け、タクシーで家に帰ることもしばしば。居酒屋からは、全く身の覚えの無いまま、「俺はお前を2年半我慢してきたんだ、二度と来るな」と言われ、追い出されることとなりました。また、今の家の前のライブハウスで客席で吐く失態を起こしてしまい出入り禁止となりました。
人事異動により、職場も徒歩で行ける所になり、大学病院から個人のクリニックへと主治医を変えたことから変化が起こり始めました。最初はあまりの向精神薬の多さと、主治医の自信に満ち溢れた態度、そして「キレやすい子」だったことが幼少期の鬱の現われだと言われ、怒りをぶつけ何度も抗議文を書いて主治医に突きつけました。しかし多量の薬は確かにわたしの心に変化をもたらすようになったのです。つまり、自分を牢獄の中に閉じ込め、独りよがりの死生観を持ったわたしを解放し、キリストを受け入れる準備が整えられたのです。
何故、キリストが真実なのかと問われるならば、すべての旧約聖書の預言を全うされたイエス・キリストがわたしを救ってくださったこと以外の何ものでもありません。そしてわたしにとってイエス・キリストに従うことが神のご命令でもあるのです。
聖書は語っています。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と。それはキリストを信じた私にとって、重いくびきではなく、むしろ感謝の十字架なのです。
精神科の主治医に合わせてくださったのも、全て神のご計画の中にあったと信じています。同じく聖書はこう語っています。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」
それゆえ、神のご命令である洗礼を受け、同じく聖書に、
それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。
とあるように、わたしは2007年4月8日のイースターの日に洗礼を授かり、聖餐の恵みにあずかりました。それはひとえに主のご命令だからです。
わたしには特に好きな御言葉があります。十字架の苦しみの中でもイエス・キリストはひとりの罪人をお救いになられました。
イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書 23章43節)
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